城生城(じょうのじょう)とは、富山県富山市八尾町城生字城鉄炮町(旧婦負郡八尾町城生字城鉄炮町)から富山市葛原(旧上新川郡大沢野町葛原)にかけての神通川西岸の丘陵地にあった戦国時代の城で、富山市史跡として指定されています。蛇尾城ともいいます。
城域は南北約750m、東西約150m。丘陵の標高は124m(比高差は約50m)。東は神通川、西から北は土川が流れており、天然の堀による要害となっています。古くから飛騨街道の要衝となっており、また神通川の水運の面でも重要な拠点でありました。最盛期には城下に鉄砲鍛冶職人が多数居住しており、その名を旧八尾町側の地名に伝えています。(現在は山林が大半を占めており、城下町は存在しません。)
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が明智光秀により討たれ、城生城も激しい籠城戦が2年にわたり繰り広げられました。上杉景勝配下の城主・斎藤信利が佐々成政の包囲を2年近く持ちこたえましたが、ついに内通者により、城の水脈を絶たれて落城することとなりました。そののち、前田利長の支配下に置かれ、役目を終えた同城は,慶長年間に廃城となります。
【戦国 合戦米】はこの合戦の地で戦国時代から500年にわたり続けられてきたコメ作りを正しく継承し、高品質な富山県産コシヒカリを限定的に生産しています。市販の量販店・スーパーなどで購入するお米とは全く違った 別次元の美味しさを、ごく一部の限られた方のみに500年間提供し続けてきたものです。